女房の妬くほど亭主もてもせず
女房はとかくやきもちを焼くが、亭主は女房が考えるほどもてることはないということ。
女房はとかくやきもちを焼くが、亭主は女房が考えるほどもてることはないということ。
「それをいってくれるな。俺のは、まったくふらふらとやってしまうのだ。俺は、そのためにいつかは身を滅ぼすと、思っていたのだ」と、そういいながら、彼はその蒼白な顔を上げた。なんという悲壮な顔だったろう。盗癖という悪癖を――意識をもってはどうともできない悪癖を持っている人間の苦悩といったものを、顔全体にみなぎらしていた。 「どうしよう広井君! (青木が雄吉に君を付けて呼んだのはこれが初めてだった)どうか。俺を救ってくれ、俺は破産した自分の家名を興す重任を帯びているのだ。食うや食わずで逼塞している俺の両親は、俺の成業を首を長くして待っているのだ。ここを追われると、俺のこの身体で食っていくことさえ覚束ない。ああどうしよう、広井君! どうかして俺を救ってくれ、主人は君、告発するとか、そんなことはいいはしまいね」 雄吉の心には、かくまでに参ってしまった青木に対する同情と、今まで自分を見下していた青木が、手を合わさんばかりに哀願しているのを見ている一種の快感とが、妙にこんがらがっていた。そして、その二つともが、彼が青木の罪を負うという決心を固めるのに役だった。 女房の妬くほど亭主もてもせず
「本当だとも、今から主人の前へ出れば分かることだ」と、雄吉は厳然としていった。彼はその瞬間、青木に対する自分の従僕的な位置が転換して、青木に対して、彼が強者として立っているのを見出した。彼は、それが快かった。 「あっ! どうしよう、俺の身の破滅だ」と、悲鳴のような声を出したかと思うと、青木は雄吉の目の前に顔を抱えながら、うつぶしてしまった。今までの倨傲な青木、絶えず雄吉を人格的に圧迫していた青木が、今やまったく地を換えてしまって、そこに哀れな弱者として蹲っていた。 「君はどうして、あんな非常識な、ばかなことをやるんだ。泥棒をやるのなら、なぜもう少し、泥棒らしい知恵を出さないのだ」と、雄吉は、青木と交際し始めて以来、初めて彼を叱責した。 女房の妬くほど亭主もてもせず
「まあ! 座れよ。立っていちゃ、ちょっと話ができないんだ。実は、この間の百円の小切手だがね、あれは君、本当に翻訳の前金として貰ったのかい」 「なんだ、そんなことを疑っているのかい。この間、君にもいったじゃないか。僕が矢部さんと共同でベルグソンの著書を片端から翻訳することになったんだよ。その前金として矢部さんが貰ってくれたんだ」と、青木の答は、整然として一糸も乱れていなかった。その瞬間、雄吉は近藤氏の言い分の方を、何かの間違いではないかと、思ったほどであった。 「そうか。それなら、はなはだ結構だ。実は、さっき、ここの主人に呼ばれて行ってみると、主人があの小切手を出して、これに覚えがあるかと、いうのだ。で、あると俺が答えると、主人は、あの小切手は主人の手文庫にしまっておいたもので、俺が盗んだのだろうというのだ。が、君が本当に翻訳の前金として貰ったというのなら大いに安心した。じゃこれから、主人のところへ行って、弁解してくれないか」 それをきいた時の、青木の狼狽さ加減を、雄吉は今でも忘れない。青木は、彼が今まで装ってきた冷静と傲岸とが、ことごとく偽物であったと、思われるばかりに、度を失ってしまった。彼の顔は、一時さっと真っ赤になったかと思うと、以前より二、三倍も、蒼白な顔に返りながら、 「君、本当かい、主人が本当にそんなことをいったのかい」と、青木は哀願的に、ほとんど震えるばかりの声を出した。 女房の妬くほど亭主もてもせず
雄吉は芝居をしているような心持であった。すべての理性が、脹れ返っている感情の片隅に小さく蹲っているような心持であった。その時に、雄吉の頭に、故郷に残している白髪の両親の顔が浮んだ。続いて、それを囲みながら、無邪気に遊び戯れている弟妹の顔が浮んだ。雄吉は水を浴びたようにひやりとした。お前は自分一人の妙な感激から、責任のある身体を、自ら求めて危難に陥れてもいいのかと、彼の良心が囁いた。が、雄吉の陶酔と感激――人生の本当のものに対する感激ではなくして、人生の虚偽に対する危険なる感激――とに耽溺している彼には、そうした良心の声は、ほとんどなんの力さえなかった。 彼はその夜、青木の帰るのが待たれた。青木がその小切手に対して、明快な弁解をしてくれるかも知れないという、空疎な希望もあった。また青木が、自分の罪を自分で背負って、主人の前に懺悔する。すると、主人は雄吉の潔白とその犠牲的行動とに感激する。そして、雄吉の友情に免じて青木の罪をも不問にしてくれる。雄吉はそうしたばからしい空頼みにも耽っていた。 青木が帰ったのは、十一時を回っていた頃であった。彼はやはり、いつものように、つんと取り澄ました彼だった。雄吉が、常に青木に対して持っていた遠慮も、今日ばかりは、少しも存在しなかった。 「おい! 青木、ちょっとききたいことがあるんだがね」と、雄吉は青木のお株を奪ったように、冷静であった。 「なんだ!」と、青木は雄吉の態度が、少し癪に触ったと見え、雄吉の目の前に、突っ立ちながら答えた。 医師 求人
いっそ、すべてを忘れて、そのかぼそい身体を抱き寄せてやった方が、彼女も自分も幸福になるのではないかと思ったが、しかし新一郎の鋭い良心が、それを許さなかった。私利私欲のために殺したのではないが、親の敵には違いない。しかも、それを秘して、その娘と契りを結ぶことなどは、男子のなすべきことでないという気持が、彼の愛欲をぐっと抑えつけてしまうのである。 彼は、しばらくはお八重の泣くのにまかせていたが、やがて静かに言葉をかけた。 「お八重殿、そなたの気持は、拙者にもよく分かっている。長い間、拙者を待っていて下さるお心は、身にしみて嬉しい。今も、そなたを妻同然に思っている。しかし、夫婦の契りだけは、心願のことあって、今しばらくはできぬ。そなたも心苦しいだろう、拙者も心苦しい。が、あきらめていてもらいたい。そのうちには、妻と呼び夫と呼ばれる時も、来るでござろう」 新一郎の言葉には、真実と愛情とが籠っていた。 お八重は、わあっと泣き伏してしまった。 が、しばらくして泣き止むと、 「失礼いたしました。おゆるし下さいませ」というと、しとやかに襖を開けた。 (お八重どの!)新一郎は、呼び返したくなる気持を危く抑えた。 女房の妬くほど亭主もてもせず
お八重と万之助が、新一郎の家に来たのは、それから四、五日後であった。 お八重は、新一郎の妻ではなかったが、自然一家の主婦のようになった。 新一郎の身の回りの世話もしたし、寝床の上げ下ろしもした。 新一郎も、お八重を妻のように尊敬もし、愛しもした。駿河町の三井呉服店で、衣装も一式調えてやったし、日本橋小伝馬町の金稜堂で、櫛、笄《こうがい》、帯止めなどの高価なものも買ってきた。 が、新一郎の居間で、二人きりになっても、新一郎は指一つ触れようとはしなかった。 お八重が来てから、二月ばかり経った頃だった。その日、宴会があって、新一郎は、十一時近く微酔を帯びて帰って来た。お八重は、新一郎をまめまめしく介抱し、寝間着に着かえさせて、床に就かせた。 が、新一郎が床に就いた後も、お八重は、いつになく部屋から出て行こうとはしなかった。 蒲団の裾のところに、いつまでも座っていた。 新一郎は、それが気になったので、 「お八重殿、お引き取りになりませぬか」と、言葉をかけた。 とお八重は、それがきっかけになったように、しくしくと泣き始めた。何故、お八重が泣くか、その理由があまりにはっきり分かっているので、新一郎も、急に心が乱れ、堪えがたい悩ましさに襲われた。 女房の妬くほど亭主もてもせず
新一郎は、返事に窮した。お八重いとしさの思いは、胸にいっぱいである。しかし、もし婚礼した後で、自分が父の敵ということが知れたら、それこそ地獄の結婚になってしまうのだ。こここそ、男子として、踏んばらねばならぬ所だと思ったので、 「御配慮ありがとうございます。あの姉弟のことは、拙者も肉親同様、不憫に思うております。されば家に引き取り、どこまでも世話をいたすつもりでございます。しかし、お八重殿と婚礼のことは、今しばらく御猶予を願いたいのでござりまする」 「頑固だな。権妻《ごんさい》でもあるのか」 「いいえ、そんなことは、ございません」 「それなら、何の差し支えもないわけではないか」 「ちと、思う子細がございまして……」 「世話はするが、婚礼はしないというのか」 「はあ」 伊織は、少し呆れて、新一郎の顔をまじまじと見ていたが、 「貴公も少し変人だな。じゃ、家人同様に面倒は見てくれるのだな」 「はあ、それだけは喜んで……」 「そうか。じゃ、とにかくあの姉弟をこの家へ寄越そう。そのうち、そばに置いてみて、お八重殿が気に入ったら、改めて女房にしてくれるだろうなあ」 新一郎は、少し考えたが、 「そうなるかもしれませぬ」と、眩くようにいった。 女房の妬くほど亭主もてもせず
が、三日目の夕方、姉弟の代りに、伊織がひょっこり訪ねて来た。 珍客なので、丁重に座敷へ迎えると、盧沢伊織はいきなり、 「お八重殿が、とうとう辛抱しきれないで、東京へ出て来たではないか」 「……」新一郎は、なんとも返事ができなかった。 「貴公は、姉弟にいつからでも家へ来いといったそうだが、ただ家へ呼ぶなんて、生殺しにしないで、ちゃんと女房にしてやったらどうだ」 「はあ……」 「はあじゃ、いけない。はっきり返事をしてもらいたい。お八重殿も、もう二十三だというではないか。女は、年を取るのが早い。貴公はいくら法律をやっているからといって、人情を忘れたわけではあるまい。昨日も、ちょっとお殿様に申し上げたら、それは是非まとめてやれとの御意であった。昔なら、退引《のっぴき》ならぬお声がかりの婚礼だぞ。どうだ、天野氏!」 女房の妬くほど亭主もてもせず
「はあ。神戸から乗りまして」 「それは、お疲れであろう。お八重殿は、一段と難儀されたであろう」 初めて新一郎に言葉をかけられ、お八重は顔を赤らめて、さしうつむいた。 「只今は、どこに御滞在か」 「蘆沢様に、お世話になっております」 「左様か。拙者の屋敷も、御覧の通り無人で手広いから、いつなりともお世話するほどに、明日からでもお出《いで》になってはどうか」 「ありがとうございます。そうお願いいたすかも知れませぬ」 万之助も、昔に変らぬ新一郎の優しさに、涙ぐんでいた。 「今度、御上京の目的は、何か修業のためか、それとも仕官でもしたいためか……」と、新一郎がきいた。 万之助は、しばらくの間、黙っていたが、 「それについては、改めてお兄様に、御相談したいと思います」と、いった。万之助の目が急に険しくなったような気がして、新一郎はひやりとした。 その日、姉弟は夕食の馳走になってから、いずれ三、四日のうちに来るといって、水道橋の松平邸内に在る蘆沢家へ帰って行った。 女房の妬くほど亭主もてもせず
「さあ。どうぞ、こっちへ!」新一郎は、座蒲団を、自分の身近に引き寄せた。 お八重が、襖の陰から上半身を出して、お辞儀をした。お八重が顔を上げるのが、新一郎には待ち遠しかった。 細く通った鼻筋、地蔵型の眉、うるみを持ったやさしい目、昔通りの弱々とした美しさであったが、どこかに痛々しいやつれが現れていて、新一郎の心を悲しませた。 姉弟は、なかなか近寄ろうとはしなかった。 「さあ。どうぞ、こっちへ。そこでは話ができん。さあ、さあ」 自分が敵であるという恐怖は薄れ、懐かしさ親しさのみが、新一郎の心に溢れていた。 「貴君方の噂も、時々上京して来る国の人たちからもきき、陰ながら案じていたが、御両人とも御無事で、何より重畳じゃ」 「お兄さまも、御壮健で、立派に御出世遊ばして、おめでとうございます」 昔通り、お兄様と呼ばれて、新一郎は涙ぐましい思いがした。 「今度は、いつ上京なされた?」 「昨日参りました」 「蒸汽船でか」 女房の妬くほど亭主もてもせず
「成田!」新一郎は、懐かしさと恐怖とが、同じくらいの分量で胸に湧き上った。 居間に落ち着いてから、女中に、 「こっちへお通し申せ」と、いった。 (万之助だろう、万之助も今年二十二か、そうすればお八重殿は二十三かな) と、思いながら、待っていると、襖が開いて、頭を散髪にした万之助が、にこにこ笑いながら現れた。 「よう」新一郎も、懐かしさに思わず、声が大きくなった。 「お久しぶりで!」万之助は、丁寧に両手をついた。そして、 「姉も同道しておりまする」と、いい添えた。 「お八重殿も!」 新一郎は、激しい衝撃を受けて、顔が赤くなったのを、万之助に見られるのが恥かしかった。 女房の妬くほど亭主もてもせず
といって、お八重に対する思慕は、胸の中に尾を曳いていて、他の女性と結婚をする気にはなれないのであった。 新一郎は、婆やと女中と書生とを使って、麹町六番町の旗本屋敷に住んでいた。家も大きく、庭も五百坪以上あった。 国に残した両親は、いくら上京を勧めても、国を離れるのは嫌だといって東京へ出て来なかった。 国の両親を見舞かたがた、新一郎はお八重姉弟の様子も知りたく、一度高松へ帰省したいと思ったが、頼母を殺した記憶が、まだ生々しいので、いざとなると、どうしても足が向かなかった。 明治五年になった。その年の四月五日であった。新一郎が四時頃役所から帰ると、出迎えた女中が、 「お国から、お客様がお見えになっております」といった。 「国から客! ほほう、なんという名前だ」 「成田様といっておられます」 女房の妬くほど亭主もてもせず
「そうですか。それは、どうもありがとう」 その時、伊織はふと思いついたように、話題を変えた。 「貴公は、成田の娘を知っておるのう」 「知っています」新一郎は、何気なくいったが、頬に血が上ったのを、自分でも気がついた。 「貴公の許嫁であったというが、本当か」 「ははははは。そんな話は、古いことですから、よしましょう」と、冗談にまぎらせようとすると、伊織は真面目に、 「いや、そうはいかんよ。あの娘は、貴公が東京から迎えに帰るのを、待っているという噂だぜ」 「本当ですか。伯父さん」新一郎は、ぎょっとした。 「本当らしいぜ、どんな縁談もはねつけているという噂だぜ。貴公も、年頃の娘をあまり待たすのは罪じゃないか。それとも、東京でもう結婚しているか」 「いや、結婚などしていません」新一郎は、はっきり打ち消した。 「早くお八重殿を欣ばせたがよい、ははははは」 「ははははは」新一郎も、冗談にまぎらして笑ったが、しかし心の中は掻き乱された。彼は、お八重を愛していないのではなかった。しかし、自分は、正しくお八重の父の仇である。この事実を隠してお八重と結婚するのは、人倫の道でないと思ったからである。 女房の妬くほど亭主もてもせず
現在、薬剤師を取り巻く状況は非常によいといっていいでしょう。 現在は、薬剤師の数が慢性的に不足しており、調剤薬局やドラッグストア、あるいは企業などで薬剤師の争奪戦となっております。 よって現在は、薬剤師の供給が需要に追いついておらず、争奪戦に勝利をするためには、待遇をよくする必要があるのです。 しかし、これも今後変わる可能性があります。 薬科大学の数が増えて、それに伴い薬剤師の数が増加すると考えられております。 その一方で、現在の日本は少子化の影響によって減少傾向にあります。 この状況というのは、薬剤師の供給は増えているのですが、その需要が必ずしもないということでしょう。 そのため、将来的には薬剤師が供給過剰になる可能性もあるということです。 薬剤師 転職
このほかシッキムにはチベットからとブータンから移住して来た種族も沢山あって、それらは純粋のチベット語ではないけれどもまずチベットの訛り言葉を使って居る。これはチベット人ということは分るし、またラブチェその者とは余程体格といい容貌といい容子といい習慣風俗の点に至っても違って居る。このラブチェ種族はやはりチベット仏教を信ずるけれども、それはごく単純な程度において信じて居るのです。そこでこの住民について充分研究すれば、あるいは人類学上面白い事を発見するかも知れんと思われる事が沢山ある。もしもこれが土着のものであったならばこの種族からどういう風に外に分れて行ったかという研究の材料を得るかも知れない。 それからこの者の土語はその語源において確かにチベット語とインド語とも違って居る様子ですから、その言葉がどういう風に他に関係を及ぼして居るか、あるいはやはりサンスクリットの言葉に関係あるものかどうか充分研究したならば、この種族の根本が解る便宜を得るかも知れん。あるいはまたこの種族は他の国から非常の古代にここに移住して来て、そこでこういう風になったものであるかも知れぬ。とにかくこの種族については一つの研究する必要は学術上あるのでございます。 女房の妬くほど亭主もてもせず
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