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女房の妬くほど亭主もてもせず

Дата регистрации: 13 октября 2013 года

女房はとかくやきもちを焼くが、亭主は女房が考えるほどもてることはないということ。

久久都比売神社一に久具神社と云い、大水上神の児久々都比古命・久々都比売命を祀ると延暦儀式帳にある。倭姫世記にも久求小野に久求社を定め賜うたとある場所で、今の度会郡内城田村上久具にその社はあるのである。その地は宮川の上流に瀕した山間の平地で、久求小野という名もふさわしく、大水上神の子の住地としても適当な場所である。大水上神の名儀式帳以外他に伝うるところあるを知らぬ。けだし里から離れて川上に住み、自然農民とは生活状態を異にして、クグツの祖神と仰がれたものではなかろうか。久求都彦・久求都媛の住地が久求小野であってみれば、なお阿蘇の土神を阿蘇都彦・阿蘇都媛と云い、伊勢の土神に伊勢津彦があった様に、久求という地の彦・媛ということに解せられるが、しかもその久求小野の名が莎草の繁茂した小野の義にも解せられ、ことにそれが大水上神の御子神だとあってみれば、もともと川上住居の土着神であった伝えは否定し難いであろう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

居の模様から起ったと決定する様に、そう手軽には運び兼ねるの感なき能わぬのである。  しからば何に由ってその名の起原を古しというか。既に少彦名命の研究にも一寸述べておいた様に、我が国津神の中に久久都彦・久久都媛という二神の名の見ゆることによってである。倭姫命世記によるに、倭姫命天照大神を奉じてその鎮まりまさん地を求め、和比野より幸行す時に久求都彦に行きあい給い、汝の国の名は何と申すかとお問いになったところが、久求小野と申すと答えたとある。この書は十分信用し難いものではあるが、平安朝を下る様なそんな新しいものではない。したがってそこに延喜式内久久都比売神社のあることと考え合せて、古く伊勢に久求都彦という土人の神の伝説のあった事は推測せらるるのである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

したがって自分は大体において、日本民族が朝鮮民族と同一系統に属すと認むる見地の下に、日本のクグツすなわち傀儡子も、朝鮮の揚水尺すなわち才人・禾尺等の源をなすものも、やはり同一系統に属するものとは認めているけれども、それが為に必ずしも我が傀儡子の祖先が朝鮮から渡来した流民だと考える必要はないと信ずる。また我がクグツの名の起原は、支那の傀儡の語が朝鮮に入って、もしくは支那の傀儡子そのものが朝鮮に入って、ここに所謂広大となったのよりも、或いは古いものとも考えているのである。そしてこの意味からして、その名が持ち物のクグ製の袋から来たということを決定するには、かの薦僧或いは蒲・苫等の特殊民の名の起原が、持物或いは住 女房の妬くほど亭主もてもせず

クグツの名がその持物たるクグ製の袋クグツから導かれたろうという柳田君の御説、傀儡または広大の朝鮮音から移ったのであろうという安藤君の御説、共に捨て難い感があって、自分は実際上その去就に苦しむ次第である。しかしながら、まず安藤君の御説を承認するには、彼らがもと内地発生のものではなくして、朝鮮から移って来たということをも同時に承認する必要がある様だ。この問題が幸いに証明せられさえすれば、もはや何らの疑いも遺らぬ訳であるが、実は西洋にもジプシーの群がある様に、この種のものは何処にでも発生しうるものであるから、類似の状態の下にいる社会の落伍者が、彼此類似の経路を取って、類似の境遇に流れ込むという事は、何処にもあってしかるべきものと思われる。 女房の妬くほど亭主もてもせず

かくて氏は、我が袋の一種をクグツというのも、揚水尺が柳器を編んで販売するのを業とすることから考えると、朝鮮から来たこれらの徒の製作したものであるから、その製作者の名を取ってこれをクグツと呼び、後にはその様に作られたものを一般的にクグツと呼ぶに至ったのではあるまいか。莎草をクグというのも、かえってクグツから出たのであろうと言っておられるのである。  なお安藤君は、顔氏家訓などに傀儡子を俗に「郭禿」とあるから、その支那音の転訛からだとの仮定説も立ちうるが、それは取らないと言っておられる。  安藤君のこの説はまことに面白い着眼で、ことにその広大との比較は最も力あるものと思われるのである。もし我が傀儡子の起原が支那にあり、或いはそうまででなくとも、朝鮮の広大と同じ流れのものだということが果して信じえらるるならば、これはまことに動かぬ鉄案だと思われるのである。しかしながら傀儡子の起原が果してそう外に求められねばならぬものであろうか。 女房の妬くほど亭主もてもせず

今一つ安藤正次君によって、歴史地理三十三巻三号(大正八年三月)に発表せられた新説がある。それは傀儡の二字の朝鮮音から導かれたのであろうというのである。崔世珍の訓蒙字会によると、傀儡の朝鮮語は Koang-tai で、その ng を日本語に移すと、gu になる例であるから、Koang が Kugu となり、ついにクグツになったのであろうと言われるのである。それには我が傀儡子によく似たものを高麗で「広大」と云ったが、その朝鮮音はやはり Koang-tai で、傀儡の音と殆ど同じであるとの事をも援引せられているのである。安藤君は傀儡子は本来支那より朝鮮を経て日本へ来たものであると考えられて、高麗の広大の徒なる揚水尺の一派の、歌舞伎芸を業とし、傀儡の戯を伝えたものが、我が国に流浪し来って、これとともに傀儡すなわち広大の名称をも輸入し来ったものではあるまいかと言われているのである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

ともかくも漂泊民たる傀儡子と持物の莎草製の袋とは離れ難いもので、その関係は自分が本誌六巻五号に、乞食を「お薦」ということの由来を論じて、薦蓆を携帯した僧を薦僧と言い、山陰道筋の鉢屋を苫とも、蒲とも云ったのは、薦を携帯しているが故に薦僧であり、またその薦を苫として小屋がけの屋根を葺くが故に苫と云い、或いはその材料が蒲であるところから蒲と呼ばれたと考えたのと軌を一にするものである。莎草も蒲もその用途は似たもので、現に山陰道筋の旧皮屋の青年が、蒲で作った叺様の袋を持ち、山子や木挽石屋に限って、藁縄で作った同形のものを持っているというのによっても傍証せられるのである。すなわちクグツの名がその持物たる莎草製の袋から来たという説は、確かに拠あるものと云ってよい。  しからばこの説はもはや他の異説を容るるの余地なきまでに動かし難いものであろうか。 女房の妬くほど亭主もてもせず

浄人がエッタと呼ばれたのも、彼らが殺生を業として、屠者すなわち餌取の類と見做された為である。そしてその女が遊君を事とするというのは、右の河原者なる浄人の女房が美しく着飾って、一人あるきし、蔵人の五位の目を引くに至ったのによっても察せられる。すなわちこの浄人は、これ所謂儡すなわちくぐつであったのだ。そしてその女が、五位の官人に袖を引かれて、「大方左様の道には協ひ難き身」だと云ったのは、おそらく身分の懸隔に遠慮したのであろうが、その歌に、「玉みくり」と詠み込んだのは、すなわち莎草を以て己が身分を示したものと解せられるのである。実はこの歌の意味は自分によくはわからない。試みにしいて解するならば、「我が身はもと浮きにし身分のものなれど、玉みくり根をとめて、引き上げることの出来ぬものだ」との心であろう。ミクリは和名抄に三稜草とあって、クグすなわち莎草とは別に並べて出してあるが、本草和名には莎草の条に一名三稜草とあって、両者そう区別のないものである。そしてこの浄人の女が己が身分をあらわすに、わざわざ玉みくりとしも云ったのは、けだしくぐつの名を隠語に示したものではなかろうかと思われるのである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

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「言ひたいこと」と「言つてゐること」との間のギヤツプが常に感じられる。即ち紋切型、月並な辞礼と云ふものが非常に多過ると云ふことになるのだと思ひます。それは実際に於て感情が言葉から游離してゐると云ふことであります。場合によつてはそれ/″\の人の思想が言葉に依つて裏切られてゐると云ふことになると思ふのであります。例へば現実の問題を非常に神秘的な表現で、有難く思はせやうとすると云ふやうな傾向が生れて来る所以も其処にあると思ふ。これは現代語と云ふものの基準が今日までまだはつきり立てられてゐないこと、つまり各自の職業身分等によつて使用する言葉の領域が非常に限定されてしまつてゐる。社会の各部門の共通の言葉と云ふものが完全に出来あがつてゐない。さう云ふことが一つの原因であります。またもう一つの原因はこの言葉遣ひがその儘その人の身分階級を示すと云ふやうな因襲に一方で縛られてゐること。従つて各人の言葉遣ひは真先に型にはまり、無難でなければならぬと云ふことを考へる――知らず識らずさういふ頭で物を云ふことが心理的に一般日本人を支配してゐると思ひます。 女房の妬くほど亭主もてもせず

以上のやうな前置をした上で、私は少し文学者として見た現代の日本語と云ふものについて申上げて見たいと思ひます。現代の日本語は色々な性格を持つてゐるのでありますけれども、その性格はどう云ふところから生れて来たのかと云ふことは非常に面白い研究になると思ふのであります。併し私はまださういふ研究はしてをりませぬし、唯そこに面白い研究題目があると云ふことだけ気がついてゐるのであります。そこで更にもう一歩進めて、現代の日本語の言葉としての弱点を、寧ろ現代の日本語が使はれてゐる状態の中に見出して、いつたいこれでいゝのかと思ふことが度々あります。その弱点について私の気のついたことを一つ二つ挙げてみますと、先づ一般に現代の日本人は言葉をほんたうに自分のものにしてゐないと云ふことを言ひたいのであります。 女房の妬くほど亭主もてもせず

それから「かう云ふ感じの云々」、これなども矢張りさうではないかと思ひます。それからもう一つは、文壇ヂヤーナリズムを通じて用語の混乱と云ふことが見られるのであります。用語の混乱と云ふと多少専門的な言葉と云ふことになりませうが、その一例として「創作」と云ふ言葉を文壇ヂヤーナリズムの上では小説と云ふ意味に使つてをります。勿論、一つの綜合雑誌の創作欄と云へば、小説も戯曲も載せるのですが、唯「創作」と云ふと小説と解するのが常識になつてゐる。これなども一つの用語の混乱だと思ひます。以上のやうな現象が平然として行はれ、また私自身もさう云ふ現象の中で仕事をしてゐるのでありますから、今日の文学者は、概して、二三の特志家を除けば、厳密な意味でわが国語の正しい使ひ方、正しい発展と云ふ風なことについて口巾つたいことは言へないのであります。 女房の妬くほど亭主もてもせず

第三の現象は、日本の現在の文壇が既にその文壇の特殊語と云ふものを生みつゝあると云ふこと、つまり文壇だけで通用すると云ふやうな言廻し、更にそれが作家である場合に、知らず識らず使つて居る一つの言葉の癖、さう云ふものが既に生れつゝあると云ふこと、これは文学の畑ばかりではありませんが、ある職業は、必ずその職業の臭ひを帯びた言葉使ひを生む。それが日本では甚だしいやうに思はれます。ちよつとした例ですが、「かう云ふ風なこと」と普通言ふ場合に「かうしたこと」と云ふ言ひ方をする。これなどは殆ど現在一般に若い人の間で使はれてゐますが、この言ひ方は民衆の間から起つた言葉でなくて、文壇の習慣がヂヤーナリズムを通じて一般化したものだらうと思つてゐます。 女房の妬くほど亭主もてもせず

と云ふのは、その地方語を使つて会話を書いてゐる作家は、実は標準語を使つて書くよりも言葉を適切に選択し、活々と駆使し得て、その結果、表現に力と味ひとが出て来るのだと私は考へます。それは一面かう云ふことになります。つまり同じ作家が会話を標準語で書くよりもその作家が若し地方出身の人ならば、その自分の生れた土地の言葉で書く方が自由である。即ち極端に議論を進めて行くならば、その作家はまだ標準語と云ふものを十分自分のものにしてゐないと云ふことになる。また同時に、東京語が大体標準語の基礎になつてゐるものと考へられますけれども、而かもそれがまだ標準語として日本では十分権威づけられてゐないことにもなると思ひます。少くとも会話の文章の上では私はさうだと思つてをります。 女房の妬くほど亭主もてもせず

少し断片的になりますが、第二の現象は最近非常に地方の言葉、つまり方言を会話として使つた作品が書かれ、流行とまでは云へますまいが、目立つた傾向を作つてゐるやうに思はれます。この地方語の特殊な魅力と云ふものが、作品を成る程或る場合には非常に面白くしてをります。その面白くしてゐる原因は、さう云ふ田舎の言葉で語る人物の生活が都会人にとつては目新しいといふ場合もありませうし、特殊な風俗習慣の描写といふことがその作品の魅力になつてゐる場合もありますけれども、もう一つ、この地方語そのものが自から持つて居る一つの魅力と云ふものが考へられます。私の見解では、地方語に依つて書かれてゐる作品の魅力は、結局その作品を書いた作家が自分自身の言葉で書いてゐると云ふことにあるのだと信じてをります。 女房の妬くほど亭主もてもせず

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