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女房の妬くほど亭主もてもせず

Дата регистрации: 13 октября 2013 года

女房はとかくやきもちを焼くが、亭主は女房が考えるほどもてることはないということ。

更に一層広く考へれば、現代日本の知的な分野に於ては、西洋風の物の考へ方、感じ方が非常に滲み込んで居ると云へます。其処からもさう云ふ現象が起ると思ふのであります。純粋な日本風の表現では自分の考へや感情が十分に云ひ現はせなくなつて来てゐる。そこへもつて来て、文学本来の反俗的な精神と云ふものが、一般に使ひ古されてゐる表現を必要以上に毛嫌ひをする傾向を生んだのであります。例へば日本人が普通に使ふ言ひ廻しと云ふものを殊更それを俗な言ひ方として却ける、避けると云ふやうなこと。ところが一方で、西洋風の云ひ廻しならば、それが向うでは月並な表現であつても、それを新鮮な、独創的なものとして、知らず識らずこれを受け入れるといふ風があります。さう云ふ風な傾向から、作家が独自な文体を生みだす努力のなかには、新しい感覚主義と言葉の遊戯とが混り合つてゐます。 女房の妬くほど亭主もてもせず

私は国語問題について別段専門的な研究をしてゐる者でなく、従つてこの問題について適切な意見を述べる資格はないのであります。一作家として現代の日本語について何か考へて居ることでもあればといふことなら、この機会に少しばかり感想を申上げて見たいと思ひます。従つて、今日御話しすることは多分極く常識的な意味の言語風俗と云ふことになるのではないかと考へます。  先づ現代の日本語を現在の文学界が如何に取扱つてゐるか。そこに何か特殊な現象でもないかと考へて、二三気づいた点があるのでそれから申上げて見たいと思ひます。  現代の日本文学と申しましても、その範囲は広いのでありますけれども、比較的若いゼネレーシヨンの中で特に目につく現象としては、一般に西洋風の表現が非常に取入れられてゐることを注意しなければなりません。西洋風の表現といふのは直接外国語を学ぶことから影響された点もありませうし、また外国文学の翻訳を読むことから影響を受けてもをりませう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

人は何といふか知らないが、僕は一向感心しなかった[#「かった」はママ]。第一、それは必ずしも演出者の技倆を軽視することにならない。なぜなら、つまらない戯曲からは、つまらない演劇しか生れない道理であるから。それならば此の演出者は、どの程度まで戯曲『狼』のつまらなさを救つてゐるか。――救はうとした努力は見える。然しそれは徒労に終つてゐる。不快な比喩かも知れないが、騎手土方氏は悍馬『狼』の背に跨つてゐるといふだけである。然し、悍馬と思つた『狼』は、その実駑馬であつた。一歩進んでは止り、二歩進んでは止る。太い頸を垂れて道ばたの草を食ふ。鞭があたる。少しは痛いと見えて、尻尾をぴくんとさせる。動かない。  報告、説明、主張、咏嘆、教訓――それ以外になにもない戯曲こそ滅ぶべきである。さういふ演劇こそ「鬼に呉れてやる」べきである。  また苦情ばかり並べ立てた。云ふまでもなく、悪口の為めの悪口ではない。僕は築地小劇場の存在を心から感謝するものである。――実際、此の劇場が無かつたら、僕は、もう劇評などゝいふものをしたく無くなつてゐるだらう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

築地小劇場の首脳は、言ふまでもなく、演劇の本質問題について一つの定見を有つてゐるに違ひない。その定見は、何等かの方法で、早晩われわれの前に提示されることであらう。それにしても、統一ある上演目録によつて先づ之を暗示しさうなものである。  かういふことは考へられないこともない。築地小劇場は民衆の為めの劇場である。故に民衆芸術の唱道者ロマン・ロオランの戯曲は、その劇的価値の優劣に拘はらず、民衆の糧となり得べき性質のものである、如何と。  万一さういふつもりなら、僕は築地小劇場に「さよなら」を言ふであらう。  いや、いや、そんな筈はない。  ロマン・ロオランの戯曲が、戯曲として本質的の欠陥を蔵し、一般のレベルから見ても平凡極まるものであることは、まあ先生の戯曲を原文で読んで見ればわかる。退屈しますよ。訳文になるとさうでもないとおつしやるのですか。それは何の証拠にもなりません。「悪いもの」ほど翻訳されると割が良いのですから。 『狼』は下らない戯曲だとする。それなら、演出はどうか。そのことについてお前はなんにも云はないな。演劇としてはどうか。それは戯曲『狼』の価値と関係はない。かう築地小劇場は云ふに相違ない。 VALID SEO いまどきのSEO対策 ウィルゲート ヴォラーレ

仮に、組織的な力がそこに欠けているとしても、われ/\は、一人一人、われ/\の愛するものを命がけで守るという本能を否定することはできません。そして、この本能に従うことこそが、人間にゆるされた権利であり、課せられた義務であり、これをなし得ないということは、人間のほこりを棄てたも同然であります。「好戦的」であるとか、「軍国主義的」であるとかいう批難は、決して、かくの如き真の人間の「生きかた」に対して加えらるべきものではありません。  家庭においても、学校においても、平和的な日本人をつくるという口実のもとに、卑屈、怯懦、因循姑息な日本人をこのうえつくる結果になつたら、まことに、新憲法の精神に添わぬ教育だと申すほかはないのです。  なぜなら、新憲法のどの条項をみても、われ/\がこのまゝでいいという条項はひとつもみあたりません。いずれも、旧い殻を破り、新しい土を耕し、茨を分け、岩壁をよじ登らなければ容易に到達できない目標ばかりです。なるほど、その目標が明らかに掲げられたことは、既に大きな収穫といつてもよいでしよう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

最近某地方自治体の首長らが暴徒の脅迫にあつて、心ならずも職責にもとる行動をとつたという事実ほど、われ/\をガク然とさせ、かつ、冷汗三斗の思いをさせた報道はありません。個人としてはなんぴともこれをわらう資格はありますまい。しかし、ひるがえつて思えば、日本の運命は、数十年来この種の代表者にうか/\と大事を委ねた国民の不明と無関心とにかけられていたのです。  新憲法がいかなる理想をかゝげているにもせよ、その精神を真に生かすものは、われ/\国民の人間としてのほこりと、協同社会につながる自己の役割の認識をおいてほかにありとは考えられません。  そういう意味からいうと、新憲法にうたわれている「平和主義」の観念、軍備を撤廃した国家のすがたについて、われ/\はもうすこし真面目に考えてみなければならぬと思います。「平和的」であることは、もちろん「侵略」の意図などを含まぬのは当然ですが、他の「侵略」に対して、無条件に身を委せることでは断じてないはずです。国としての武装は「平和」の意志表示としてこれをまつたく解いたとしても、国民はそれによつて祖国を守る義務を放棄しなければならぬ道理はないでしよう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

とは申すものゝ、あなたも既にお気づきのように、われ/\同胞が、なにゆえに、大事なことを人委せにして平気でいられるか、ということは、考えてみると、その由来するところは深く、かつ遠いのです。こゝでその原因を分析する手数ははぶきますが、これはどうしても子供の時分から、そういう癖をつけないように、育てるということから始めなければならぬと思います。つまり、社会人としての自覚を与える一方、善い意味で衝動の力を伸ばすような教育が行われゝばいゝのです。社会人としての自覚のなかでは、なによりも、連帯責任の観念が大切な要素ですが、このことは、おそらく、学校にはいる前に既に家庭である程度の素地ができていなければなりますまい。  お宅のお子さん方は、その点、あなたから直接なにものかを受けつぐことができるわけですが、一般日本の家庭では、これまで、そういう意味でのしつけはまつたくゼロといつてもよいくらいです。従つて、そういう素地のまつたくできていない子供たちを、近い将来、友達としてもたなければならぬお宅のお子さん方は、もし周囲に正しい眼が光つていなかつたら、必ずその影響のなかで、あなたがお望みにならぬような方向に性格づけられていく危険がないとはいえません。 女房の妬くほど亭主もてもせず

今月は問題がたくさんありすぎて困るくらいです。なにをとりあげても、それがすぐどうなるものでもありませんし、あなたとしても、必ずしも身近なことでなければ興味をおもちにならぬわけでもあるまいと思い、すこし大きく手をひろげてみましよう。  それはこの月がちようど新憲法実施一周年にあたるところからも、私の注意は、国の制度と社会生活の実態との関係に向けられたわけですが、そも/\、日本の現実の社会と、新憲法の精神との間に、極めて不自然な開きがあるということを気づかぬものはひとりもいますまい。それはむろんやむを得ぬことでしよう。  しかし、その開きを埋めようとする努力が、国民自身によつて試みられなければならぬのに、どうかすると、それは逆に、国民をしてこれに従わしめようとする力がその頭上に加えられかねない有様を、私はなんとしても不思議に思うのです。自ら求めて得べき筈のものを、他から押しつけられなければ受けとれぬという精神の怠慢と卑屈とを見逃すならば、日本の再起を語ることも一場の空論にすぎません。 女房の妬くほど亭主もてもせず

労働組合の運動そのもののなかに多分の「封建性」がみられるように、例の帝銀事件も、犯罪の特質をよく考えてみると、日本人の特殊な残虐性というようなものではなく、むしろ、「長いものにまかれる」一種の事大的傾向があの悲劇をもたらしたものといえましよう。これはもう誰しも認めていることですが、たゞそれをそう認めているもの自身が、あれに似たことを無意識にやつていないとはいえない。そこに一番大きい問題があるのです。  あなたがたには、非常に不思議なことでしようが、日本人ぐらい口で言うことと、実際の行動とがはなればなれな国民はないでしよう。これは必ずしも、われ/\が誠実でないのではなく、虚偽をにくまぬわけでもないのですが、悲しいかな、われ/\の精神機能は今や分裂の危機にのぞみ、あなた方の表現をかりれば、「頭」と「心臓」とが同一体内で別々の血液を通わせているという状態なのです。  このことを、一度、よく考えてみてください。 女房の妬くほど亭主もてもせず

しかし、奥さん、私は、それでもなお希望はすてません。問題は、どん底に落ち込んだ時、もうすつかり骨ぬきにされているか、あるいは、まだ起ちあがる力が残つているか、ということです。どん底に落ち込むことはもはや防ぐわけには行くまいと思いますが、その時、なにかしら、どこかに、ちやんとした精神の支えと、われ/\を奮い立たせる原動力のようなものがかき消されずにあるという、そういう転落のしかたを、私は、かすかながら、待ち望んでいます。われ/\の努力は、ですから、そういうものを、そういう時のために、蓄積する努力にすぎないということを、あなたに特に申しあげておきたいのです。  これで、あなたのおそらくは昨今もちつゞけておられるにちがいない疑問をひとつ解いたことになりはしませんか?――日本はこれでいゝのか? というあなたの疑問に、今日はじめて、私の答をお送りします――これでよろしいのです、と。 女房の妬くほど亭主もてもせず

ものには順序があるといいましたが、私は、今の日本が、これで、あたり前の順序さえ踏めばとん/\拍子に住みいゝ土地になるとは思つていません。そんな考えは誰ももつていないでしよう。率直にいえば、たゞ、私は、あるひとつの順序は、やはりあると思います。それは、一旦、どん底へ落ちこんで、そこから再び浮び上つて来るということです。  どん底とは、もちろん、民族としての最も不幸な状態をいうのです。それまでは、なまじつかなつつかい棒はなんの役にも立ちますまい。まして、どんな力が、こゝまで来たわれ/\を上へ押しあげることができるでしよう? 新しい政治、新しい教育、新しい宗教、そんなものは、それだけでは、空手形にすぎません。  すべてが塗り換えた看板の下で転落の運命を辿つているではありませんか、なぜでしよう、われ/\は根本的なものを見失つているからです。あなたにはおわかりにならぬかも知れませんが、日本人は、ずいぶん久しい以前から、自分のほんとうの力というものを信じなくなつているのです。易きにつくことがほとんど唯一の撰び得る道だつたのです。 女房の妬くほど亭主もてもせず

その方法とは、もうそれを実行しているものもあるだろうが、家庭的な催しとして清潔な雰囲気のなかで行うことがひとつ、更に、工場や、地方の小都市、農村などの青年男女は、いきなり近代都市風の流行ダンスに走らず、ヨーロツパ各地方で現に行われている一種の野外ダンス、例えば、ブルターニユのパ・ド・ルウのような古典的で、素朴闊達なダンス形式を取り入れ、かの盆踊りのいろ/\な物足りなさを十分補えばいゝのである。小学校では、男女共学の意義を徹底させるうえにも、適当な指導によつてダンスに親ませることは是非やつてもらいたい。  以上の三つを私の注文として出すが、とにかく、現在のダンス・ホールは、あのまゝで、あれだけでは、たゞ青年をスポイルする役割しか果し得ないだろう。――奥さん、私のこの答弁はいかゞでしようか? 道学者の臭いがしますか? しかし、私は、現に青年を蝕みつゝあるのは、ダンス・ホールに限らぬと信じています。そして、それはしかたがないことゝ思つています。 女房の妬くほど亭主もてもせず

私は即座に答えました。――そんなことはいゝわるいの問題ではないと思う。やりたかつたらやるがいゝ。君のいう「はにかみ」は、当然なければならぬもので、もしそれがなかつたら、君は、まともな人間とはいえない。しかし、ものには順序がある。第一に、そういう「はにかみ」は順序をふんで、自然にダンスというところまで行けば、もうなくなる性質のものだ。早くいえば、音楽が日常生活のなかに浸み込み異性と触れ合うことがそれほど特別な意味をもたぬような習慣が身についてからなら、問題はないのだ。進歩はダンスをやることのなかにあるのではなく、その以前の生活のなかにある。現在のわれ/\の生活と、ダンス・ホールとの間には、それを飛び越えるのにちよつと無理な空隙があるので、それに気がつくと、「尻ごみ」をしたくなるのだが、一方、青年はもはや少年になることもできず、急に、生活様式やその習慣を変えることも困難にちがいない。それには、ダンスというものをすべての娯楽とおなじく、健康な方法で生活のなかへ取り入れる工夫も必要になるだろう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

今の時代、求人を探す際にはインターネットで求人サイトをチェックするという方が最も多いかと思います。確かにインターネットに公開されている求人の数は膨大で、1ページに何十もの求人が掲載されているため、自分に合ったものを見つけやすく、とても便利です。 しかし、求人を探す方法はインターネットだけではありません。実はインターネットに公開されていないような優良な求人が別の方法で募集されていることもありますので、以下ではインターネット以外の求人の探し方をご紹介します。 1.地域情報誌 その地域の求人を探す際に便利なのが地域情報誌です。地元に特化した情報誌ですから、インターネット上などには公開されない求人が数多く載っており、レアな求人を見つけることも珍しくありません。 2.実際の店舗を見る とてもアナログな方法ですが、実際の店舗に掲載されている求人も見逃してはいけません。 店舗に張り出してまで募集しているということは、急募であることが多いため、条件が通常よりも良いというケースも多くみられます。求人・転職の情報サイト「e-求人情報」です。6000円(2週間)の低価格でご掲載可能。

何事にも順序があり、過渡期というものがあります。司令部当局もそれは認めているようですが、一番困るのは、順序について思いをひそめるものが少いことゝ、過渡期だから仕方がないと高をくゝるものゝ多いことです。  あなたの住んでいられる処にも、最近、ダンス・ホールが出来たそうですが、それをいわれる時のあなたの皮肉な微笑がまだ私の眼の底に残つています。  その後、あるところで、私は一人の青年にこんな風に問いかけられました。――ダンスをやりたいと思うのだが、どうも気がひけてホールへ足を踏みこめずにいるが、思いきつてはじめる方がいゝかどうか? そういう「はにかみ」のようなものは進歩のさまたげではないだろうか? 女房の妬くほど亭主もてもせず

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