女房の妬くほど亭主もてもせず
女房はとかくやきもちを焼くが、亭主は女房が考えるほどもてることはないということ。
女房はとかくやきもちを焼くが、亭主は女房が考えるほどもてることはないということ。
私は恐らく、この秋頃から、それらの友人達にくつついて能楽を「拝見」することであらうが、果して、よく、一曲の終るまで居眠りの辛抱ができるかどうか、正に保証はできかねる。といふのは、かくも「偉大なる」演劇的モニュメントなるにも拘はらず、私の性分に通じなさうに思はれるのは、この舞台たるや、飽くまでも、「現代」と没交渉であることだ。私は、決して、「現代」を好んではをらぬ。それどころか、「現代」に生を得たことを甚だ悲しむものであるが、どうも、「現代」といふものが一番気になるのだ。何か「現代」から眼をそらすことが怖しい。いや、眼をそらすことが淋しいのだ。私は「現代を救はう」などと考へてをらぬ。なに、結局「現代人」なるものが、愛するに値しなくとも、一番、見てゐて面白いからだ。 女房の妬くほど亭主もてもせず
結局、謡曲なるものの、所謂「物語としての」文学的発展、殊に、所謂「劇的」な内容は、能楽の高い鑑賞には却つて邪魔つけなのだ。それは飽くまでも、演技化された「言葉の魔術」だ。「言葉」の音と意味とが、何れともつかず渾然と同化して、瞬間瞬間の「幻象」を繰りひろげ、その幻象が、刻々生命の象徴として視覚的に浮び出るのだ。連鎖なき言葉の幻象にこそ、超現実的生命が流れるので、そこにこそ、自然ならざる「真」を感じる悦びがあるのだ。 私の能楽礼讃は、しかし、多少、眉唾ものだ。なぜなら、能楽そのものを、私ほど観てゐないものは少なからうし、また、観てもそんなに面白いとは思はぬにきまつてゐるからだ。が、ただ私は能楽ファンの一群を友人に持ち、彼等の熱狂ぶり、と云つて悪ければ、その渇仰ぶりを見て、内心甚だ穏かならぬものがあり、且つ、理論的に考へて、誠に、さもありなんと思はれる節もあり、殊に、私の演劇本質論が、偶然、この影の薄いと思はれた骨董的芸術によつて、またとなき根拠を与へられたことは、なんといふ皮肉であらう。 女房の妬くほど亭主もてもせず
彼等は、少くとも、現代の戯曲が、如何なる意味に於て生気を失ひ、如何なる点で行きづまつてゐるかを気づいてゐる筈だ。彼等のうちの最も野心あるものは「傑作」を書かうとする前に「如何なる方向」に進むべきかを考へない筈はないのだ。彼等は、所謂「新しさ」に飽き、「こけおどし」に迷はされず、只管「本質」の問題を考へはじめてゐる。漸く、そこに来たのだ。文壇の風潮から、なるほど、遠いではないか。 チエホフは、幸ひにして、あの豊富な文学的内容によつて、わが文壇に多くの知己を得、その戯曲は、恐らく、戯曲としてよりも、何かしら「ユニック」な文学的作品として、全く申分のない歓待を受けたやうだが、誰か文壇の批評家で、謡曲のうち、最も「意味の通じない」曲を、ひとつ、文学的に評価してみるものはないだらうか? これは最近仕入れた知識であるが、能楽の舞台に於ては、さういふ曲こそ、最も純粋な魅力を発揮するものであるらしい。言ひ換へれば、物語の筋及び、その構成の如きは、能楽としては寧ろ第二義第三義的なもので、描写の如何、その他直接感情に愬へる言葉の意味さへ、殆ど能楽全体としての効果から云へば計算に入れなくてもいいのだ 女房の妬くほど亭主もてもせず
さて、問題を、劇文学の領域といふ本題に引戻さう。 凡そ世界の演劇史を通じて、最も偉大且つ高貴なるモニュメントとして残るものは、チエホフの戯曲と能楽の舞台であらうとは、私の予々信じるところであるが、前者は、戯曲の生命にはじめて決定的な文学的表現を与へ、それを今日にまで生かしてゐる点、後者は、同じく、舞台の幻像が、最も単純な姿を以て最も深きに達してゐる点、共に比類なき芸術と呼ばるべきものであつて、何れも、東西演劇の原始精神が、期せずして、後世、見事な花を開いたとも云へるのだが、私は、この二つの例を並べてみて、総て、純粋なものに共通な特質といふものをはつきり見出し得るやうな気がするのだ。 この議論を押進めて行くと非常に長くなりさうだから、それは次の機会に譲ることとして、要するに、チエホフの天才、並に能楽の恵まれた「運命」について、一応読者諸君の同意を得るものとし、その何れもが、決して、「演劇を如何にすべきか」などといふ、「現代的な問題」を基礎にして生じた芸術品でなかつたことを言ひ添へておきたいと思ふ。 然るに、今日、劇文学に志す青年誰一人が、スタニスラウスキイ、ラインハルト、メイエルホリド、小山内薫の名を知らないであらうか? また誰一人がイプセン、ゴオゴリ、ハウプトマン、マアテルランク、エドモン・ロスタン、久保田万太郎の名を知らないであらうか? 女房の妬くほど亭主もてもせず
かくの如き状態は、私に、かういふ結論を引き出させる。曰く、所謂、雑誌なるものの創作欄からは、将来「本当の戯曲」は現はれないだらう、と。 それと同時に、小説と戯曲とは、何れもその本質的両端に於ては、従来の兄弟づきあひ乃至夫婦関係の如き情実主義を清算して、全く赤の他人となり、偶々路傍に相見えても、お互に挨拶の面倒さへなくなるだらう、と。 だが、これは、袋小路の如き日本の文壇に於ては、定めし、不自然極まることであらうと思はれる。何となれば、小説七軒、戯曲一軒の割合にもならぬとすると、戯曲は、全く孤影悄然、話しかける相手もない有様が眼に見えるやうだからだ。そこで勢ひ、頭をもたげるのが、演劇の実際運動だ。さういふ機運に乗じて生れ出たものでなければ、真の底力ある新劇運動とはいへない。 ここには、雑誌月評家の小姑意識も働かず、作者自から、厳正な自己批判の前に立つて、才能の試錬に耐へなければならぬ。 女房の妬くほど亭主もてもせず
何によつてそれを感じるかといへば、聊か主観に偏するきらひはあるが、私は敢て、周囲にそれを感じさせる二三の若い友人がゐると答へたい。彼等は、勿論既成劇壇に何等の期待をおいてゐない。彼等はまた、所謂「文壇に出る」ことを最初の目的ともしてゐない。彼等は、日本の新劇が今日まで達し得たところを以て、自分の出発点とする考へすらもつてゐない。彼等は文字通り、戯曲と倶に、ただそれのみと生きて来、また生きようとしてゐる。 私は、故らかくの如き悲壮めいた言ひ方をするのではない。今日の時代に、彼等が、如何に傑作を書かうとも、これを世に問ふ機関がどこにあるかといふことを考へるのだ。同人雑誌、殊に演劇に関する片々たる小雑誌の如きは、世間的に見れば、せいぜい原稿のコピイ同然だ。彼等は、時勢を識るにせよ知らぬにせよ、その作品が、活字によつて、多くの知己を得るなどとは考へてゐまい。それ故に彼等は、徒らにあせらないのだ。そして、かく云ふ私などが、これまで無数に発表したやうな雑誌的戯曲は、夢にも書かうとはせず、また、書く必要もないのだ。 女房の妬くほど亭主もてもせず
歴史を遠く遡る必要はない。十年前には、小説家が戯曲を書けば、その戯曲はその小説と同等に評価されるのが普通であつた。処が、今日の小説家は、特殊な場合を除き、恐らく戯曲を書いて、その小説ほどの評価を得ることは困難だらう。その理由は、云ふまでもなく、今日の小説が、「本質的に」著しく「進化」してゐるのだ。そして、戯曲は、全く、進化の道を塞がれて、「本質的に」旧態依然たる有様だ。 ところで、これは別に悲観すべきことではなく、もともと、戯曲といふものは、その進化の道程が、小説とは自ら異つてゐるので、小説の修業は、必ずしも戯曲の修業と一致せず、小説の達し得る領域に戯曲が達し得ないといふことは、戯曲の達し得る領域に小説が達し得ないことを証明するだけだ。但し、さういふ見解は、十年以前には、まだ漠然としてゐたに相違なく、今日でも、なほ、文壇の一部では、無批判に、戯曲が小説のレベルに達しないと断言する人々がある。さういふ人々は、果して、わが戯曲壇の、最近十年間の歩みを観てゐるだらうか。私は、前に、戯曲は、全く進化の道を塞がれてゐたといひ、「本質的に」旧態依然たる有様だといつたが、それは、文壇の表面に浮び出た若干の例のみについて述べたのであつて、爾来、黙々として動きつつある次のヂェネレエションこそは、実に、この十年間の歩みを独占してゐたのだ。 女房の妬くほど亭主もてもせず
近頃、純文学と大衆文学の問題が各所で論議されてゐるやうだが、これは、所謂「文芸上の問題」とはなり得ない一個の文壇四方山話にすぎないので、「純文学では飯が食へん」とか、「大衆文学を書くのにもやはり才能がいる」とか、何れも、動かすべからざる真理に違ひないが、今まで、どの時代の文学者も、そんなことは嘗て言はなかつたほど、当り前のことなのだ。まして、「純文学の勢力が衰へ、大衆文学が盛んになつたのは何故だ」とか、「純文学と大衆文学の区別如何」といふやうな奇問は、日本の雑駁な文壇用語を以てするに非ざれば、殆んど意味をなさない。 しかし、かういふ問題も、直接、作家の生活に関係があればこそ、そこここで話題にも上るわけであらうが、それならば、同じ文学の領域にあつて、今日、小説と戯曲とが、一時代前に比較して、その対立関係を次第に変じて来た事実も、戯曲家の立場から見れば、一個の興味ある問題であり、同時に、文壇ジャアナリズムの注意に値する現象だ。 女房の妬くほど亭主もてもせず
会社の人事を担当していると、いろんな人に出会いますが、 時々前職は看護師という人が面接に来ます。 せっかくの資格があるのに、もったいないなぁと思うこともあるのですが、 ずっと看護師ばかりやっていると他の世界を見たくもなるのでしょう。 私の友人も看護師をしていて、時々転職をしています。 それもかなりの頻度で。看護師さんはどこも引く手あまたで、合わないなぁと思った病院で無理に勤める必要は全く無い様子。 正社員で生涯同じところで働くよりも、いろんな人と出会えるしいろんな職場で働くのは学ぶこともたくさんあるように感じます。 別の看護師の友人は、海外旅行に行きやすいということで、派遣スタイルの看護師をやっています。 働きかたも自在、働く場所も選び放題、楽しそうだなぁといつも羨ましく思っています。 看護師転職サイト選び方.net
今日、商業劇場に於ける現代劇の破綻は、すべてここに源を発してゐるといへる。現代劇を演ずる俳優は、その姿態動作に於て、ちつとも「ハイカラ」である必要はない。ただ、西洋劇の流れを汲む劇的伝統を自覚し、その演技の根本を会得してゐなくてはならぬ。 脚本「トパアズ」は、他の意味では兎に角、日本演劇の現在に、一つの平易な教訓を垂れるものであつたのだが、惜しいことに、今度の舞台では、原作の面影を映し得なかつた。 恐らく、俳優の一人一人も、あの作品を演じたことによつて、新しい何ものをも学び得るに至らなかつたらう。罪は、飽くまでも興行者にある。 しかし、俳優のうち、一人でも、時代と倶に歩まうとするものがあつたら、劇作家たるもの、まだまだ、仕甲斐のある仕事はあると思ふ。劇壇暗黒を嘆ずる代りに、われわれは、先づ、独り、明るみに出なければならぬ。(一九三一・七) 女房の妬くほど亭主もてもせず
その他の俳優に至つては、何れも、白の陰翳を逸し、思ひきりその効果を歪めてゐるばかりでなく、各人物の性格からいつても、名前は同じだが原作にないやうな人物になつてをり、折角のコントラストを台なしにしてしまつてゐるのである。 私は、この上演の失敗を、誰の罪に帰するかといへば、第一に興行者の罪に帰するのであるが、なぜかといへば、これだけ「信用のできる」作品を手に入れながら、この機会に、せめて、原作を完全に近く活かす手段を講じておかなかつたのが抑も手落ちだからである。 その手段とは何かといへば、翻案者に十分の時間を与へることが、その一つである。次に、配役に一層の考慮を払ふことがその二つである。そして、最後に、この「超国境的な」脚本を、譬へ翻案にしろ、あまりに「因襲的に」演らせすぎたことである。 女房の妬くほど亭主もてもせず
然るに、かういふトオンは、作者の稟質にもよるのだが、これに舞台的生命感を盛るためには、是非とも、西洋劇の伝統たる「心理的リズム」の演技化を必要とするのである。日本劇の伝統には、厳密な意味での心理的要素はなく、従つて、俳優の心理表現は、単純で類型的なのである。 故に、かういふ脚本を上演する場合、日本の俳優は、「そのままでは」使へないのであつて、井上ほどの「心理的俳優」でさへ、主人公トパアズの役柄を、彼として最も不利な方向に変形し、その演技も亦、この種の脚本にあつて最も避くべき一つの型に陥つてゐたのである。 女房の妬くほど亭主もてもせず
この作家は最初からブウルヴァアルに躍り出たので、その出世作「トパアズ」は、先月帝劇で翻案上演されたが、巴里の見物を狂喜させ、世界各国で評判をとつたこの愉快なるヴォオドビルも、日本の観客は、冷然としてこれを迎へ、屡々欠伸を噛み殺してゐたやうである。 この脚本を松竹に推薦した私は、このことで幾分責任を感じなければならぬわけであるが、しかし、私には、私の云ひ分があり、この文章の結論としては、甚だ便利なことであるから、今、この問題に触れてみることにする。 この「トパアズ」といふ作品は、所謂高級な作品ではなく、日本の見物を可なり甘く見ても、十分、その興味を惹き得る通俗喜劇であるが、その面白さはどこにあるかといへば、決して、筋や趣向にだけあるのではなく、さうかといつて、それほど奇抜な思想や巧妙な会話が特色であるとも思へない。要するに現代生活の裏面を、痛快に、やや意地悪く暴露、戯画化した、剽軽で図々しく、辛辣で愛嬌のあるその作品のトオンが、何よりも現代人の嗜好に投じたと見るべきであらう。 女房の妬くほど亭主もてもせず
また、日本ならば、インテリ階級の娯楽としてのみ取扱はれるかもしれないが、要するに、西洋では、老若男女、みな一様に興味をもつところの芝居、例へば、仏蘭西でなら、小はクウルトリィヌの一幕物、大はポルト・リシュの心理劇を初めとし、やや、質は落ちるが、バタイユの人情劇とか、ベルンスタンのメロドラマに至るまで、これらは、現代に於ける巴里の商業劇場が、不安なく選び得る上演目録である。但し、これらの作家は何れも、相当の年月を経て民衆に近づき得た作家といふべきで、それ以上、適切な例は最近素晴しい人気を集めてゐるパニョオルの諷刺劇である。 女房の妬くほど亭主もてもせず
勿論、西洋にも、これと同じ例はないこともないが、劇場の組織、俳優の素質等から見て、同じ商業劇場、同じ職業俳優といつても、日本のやうに、新劇の先駆的傾向に無関心、無理解ではなく、機会さへあれば、その成果を吸収しようと努めてゐる有様は、現在、ありありとわかるのである。これが、所謂某々新劇運動の消長に拘はらず、絶えず、一国の劇壇を、新しい空気によつて包み得る原因である。 それから、日本の商業劇場乃至職業俳優と、所謂新劇の先駆的傾向との間に、何故にかくも深い溝が出来たかといへば、それはいふまでもなく、良い意味での現代大衆劇――凡そ、文明国ならば、何れの国の何れの都市にも存在する、面白く、洗煉されたブウルヴァアルの芝居なるものが、日本には、まだ存在しないからである。これを、プチ・ブル趣味の芝居と呼ぶことは勝手である。 女房の妬くほど亭主もてもせず
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