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女房の妬くほど亭主もてもせず

Дата регистрации: 13 октября 2013 года

女房はとかくやきもちを焼くが、亭主は女房が考えるほどもてることはないということ。

都市美の本来の理想は、その建設者と、現住者との一貫した美の理念の発揚にあるのである。それは、個々の建築にも、一連の住宅のたゝずまひにも、街路樹の 風情にも、道行く人々の衣裳の好みにも、商店の窓飾りにも、ポスタアにも、看板にも、レストオランの空気にも、劇場や公園の設備にも、裏町の暗い軒下に も、縁日の雑沓の中にも、その民族の特性と時代の意味とをそれぞれに反映した都市生活者の歴史と鋭敏な感性がひらめいてゐることである。 学校都市には学 校都市の、軍事都市には軍事都市の、また工場都市には工場都市の風格と色彩があり、それはそれなりに、都市らしく繁華でも、整然としてゐなければならぬ。 新開地の興味は、粗製濫造の模擬都市であるところから発するのであつて、その安手なといふ印象は、特に金をかけないからではなく、都市建設の文化的能力を 欠いだ手合によつて次ぎ次ぎに偽物が積み重ねられて行くからである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

東京で恐らく最も巨額の資金を投じたと思はれる某大料理店の、顔を蔽ひたくなるやうな卑俗さを嗤ふものは嗤つてゐるが、しかもなほかつ、これが東京での名 物のひとつとなりすますのである。田舎の親類をおつたまげさせるだけならまだいゝが、近頃の東京人は、憚るところなく次代の若者をこゝへ連れ込んで競つて 飲み食ひさせてゐるのである。都市美低下の極めて重大な症状である。 ところで、この種の症状は、今や、流行病の如く、全国に蔓延しつゝある。最近どこで も目につく一流と称する新築旅館の部屋部屋の凝つては思案にあまる滑稽な業々しさ、材料と手間と愚劣な技術の濫費、これこそ、都会のならず者と田舎の蓮葉 娘との図々しい野合である。 私はかゝる風潮の一般国民に与へる影響を大きく見積る。うかうかと贅沢の自己満足にひつかゝるばかりではない。これに慣れる ことによつて、ほんたうに壮麗なものがわからなくなり、高い文化の与へる人間生活の深い快適な味ひさへも見失つてしまふからである。 特に、時節がら、一 挙両損といふべきこの不健全な都会的偽態を撲滅しなければならぬ。奢侈禁止令は、屋外のみをさ迷つてゐる時機ではない。 女房の妬くほど亭主もてもせず

都会はまた知識層の働き場所としての特色をもつ。農山漁村にも、個人としては高等教育を受けた人もゐるであらう。しかし、大都会になればなるほど知識人 の集団としての職場があり、それは都市の最も中枢的な生活面に反映する筈である。レストオランのムニユーが横文字で書かれてあるといふやうなことだけでは ない。試みに三大都市の住民の学校程度の比例をとつてみると面白いが、これは誰も正確に数字を云ひあてることはできない。仮に学生を含めて専門学校以上程 度の学力あるものを、その他のものゝ約百分の一と考へてみよう。実際はそんなにないかも知れぬが、都会に育つといふことは、ある意味で、本人の努力と野心 が伴へば、学校は早く切りあげても、知的教養の水準はいろいろの方法で高まるものである。かういふ風に見て来ると、都会はともかくも、知的な需要を満たす ひとつの場所でもあり、また、知的なものによつて動かされても行く一個の国民集団であると云へるのである。 知的な文化設備の必要もそこから生れるが、ま た、その設備の程度、即ち量と質との観察によつて、その都市の文化程度、それが若し、一国の首都であれば、その国家の文化水準が推し量られるわけである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

市民の知的な誇り、国民の文化的優越感は、それゆえに、常にこれが完備を目標として進むのが世界各国の例になつてゐる。政策的にも亦、単に教化の資料とす るに止まらず、これをもつて国家が外国に自国文化の高度を誇示すると同時に、国民の自負、即ち祖国への愛と尊信とをかち得る一手段としたのである。 わが 日本は、さういふ形で国民の自負心を煽る必要は、さうさうないであらう。しかしながら、一国民の、他国民に向つて「これを見よ」と云ひ得る真の人間的能力 の表現が、相手の如何ともなし能はざる、また、競ふにも競へぬ国体の精華だけでは、こちらもなんとなく相手が気の毒になるばかりである。「さあ来い」と云 へるやうな、それも、遠い過去の遺産だけでなく、現在のわれわれの力で作りあげ、築きあげた各種の文化の殿堂で、わが大都市のいくつかを飾りたいものであ る。 女房の妬くほど亭主もてもせず

都市生活が、民衆娯楽の営利化といふ面を通じてゞも、一般に享楽的に傾くことは否定できない事実である。しかし、これは、人間自然の要求がそこでは満たされ、またそれがある程度誘発されるといふだけであつて、都会自身のもつ不健全性ではないのである。  不健全なのは、寧ろ、かゝる娯楽機関をあげてこれを営利の具となさしめる為政者の怠慢と、文化意識の欠如である。  わが国では、まだ、官営或は公営娯楽施設などゝいふ言葉を聞いたゞけで、民衆は尻ごみをしさうな気がするけれども、これはもはや、放任しておけない問題である。  尤も、既に早くから、文部省あたりで国民娯楽の研究的調査が進められてゐるとは聞いてゐるが、そして、紙芝居の如きものには、相当の干渉が加へられたといふことも知つてゐるが、国家ひとたび動いて紙芝居を取締る図のなんと本末を誤れるやである。簡単にいふことを聴くものから槍玉にあげるのは、自信と勇気のない証拠である。 女房の妬くほど亭主もてもせず

私も勧められるまゝにその会員の一人となつてゐるが、実はその事実の成果について迂闊ながらなにも知らぬ、都市美協会なるものがある。たしか半官半民の堂々たる研究諮問機関のやうに聞いてゐる。「都市美」といふ雑誌も発行してゐて、口絵には、建築や公園の「芸術写真」のやうなものがよく出てゐる。車道の石の敷き方にはどんなのがあるかといふやうな例や、醜い看板が並んでゐる不体裁な街頭の例などものつてゐた。  都市文化の一面は、たしかに、都市美のうちにも窺はれるものである。ところが、都市美に於てすぐれた大都市が、必ずしも、近代都市として好ましい文化をもつてゐるとは限らぬ。巴里や北京を想ひ出すまでもなく、われわれはもはや、この国土にさういふものを求めてゐるのではない。 女房の妬くほど亭主もてもせず

もうひとつ、都会の隅々から人力車なるものを一掃したい。それによる失業者をどうすることもできなければ、せめて、新しく免許しないことにしてほしい。仏領印度支那の苦力でさへ、近頃はリヤカー式の後押し洋車を「操縦」しはじめてゐるのである。この人力車なるものゝ発明は、抑も東洋の西洋人による植民時代に端を発し、今なほ、極東のエキゾチスムとして白色観光者の間に喧伝されてゐるが、かゝる事情は別として、第一に、人間の労働姿態としても、乗客たる人間との関係に於て甚だグロテスクなものである。最近自動車の払底に乗じて、またまた各所にその数を増した、この居留地撤廃以前の乗物を一日も早く絶滅させたいのは、東亜の盟主たる日本国民の痛切な願ひである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

さてその次に、都市の交通機関について一言する。ほかの都会のことはよく知らぬけれども、東京では、人口と面積に比して交通機関がまだ未発達であり、従つて、混み合ふ時の混み合ひ方は言語に絶してゐる。これも屡々市民の不徳として問題にされるけれども、それを調節する方法が考へられてゐるかどうか、東京市民の気質が年々兇悪になり、同胞を同胞と思はぬ冷酷さが養はれて行くのである。当局は速かに、市民と協力してこれが整理方法を考究してほしい。実は大して頭のいる仕事ではないのである。寧ろ、この惨状を見るに忍びないといふ神経のあるなしによつて解決される問題である。一例を挙げれば西洋のある都市で既にやつてゐる番号札制度を採用すれば簡単であらう。  更に、円タクの運転免許は、兵役をすましたものに限りこれを渡すといふ規定を当分実行すること。少くとも、歩調を揃へることのできない青年に、この危険な職業を委してはおけないのである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

人に遊びに来いと云へば、いちいち名刺の裏へ道順を書かねばならぬ。この手間と不細工とを、もう誰もなんとも感じなくなつてゐるのであらうか。私の住ひは東京新市域のはづれである。比較的区画整理もできた場所であるけれども、公の町名だけでは、殆ど見当がつかず、二時間も捜して歩いたといふ訪問客もあつた。日本人には膨れつ面をしてゐるものが多いと、よく西洋の女などが云ふ。これで膨れつ面にならなかつたらどうかしてゐるのである。膨れつ面は、怒るにも怒れぬところから出来るのである。だから、私は、市役所に代つていつも詫びを云ふことにしてゐる。ところが、さういふ場所を択んで住ひを求める人間がゐるからわるいとも云ひ得るといふことを、近頃つくづく感じるやうになつた。云ひかへると、国民の為政者への協力が、足りなかつたのである。 作業服 作業着 専門店

久々で東京の街を歩くと、いろいろな新しい現象が眼につく。これらの現象は、次第に地方の都市に、更に、田園に延びひろがる性質のものである。  これらの現象は戦後、ことに敗戦国の特殊事情のなかに発生したものが多いことは明らかであるが、私は前大戦の直後、フランス、イタリイ、ドイツ、オースタリイの諸国をまはつてみて、それぞれの国民性と、戦後の立場とを考へながら、いろいろな観察を試みた。その記憶を今日呼びさまし、当時の日本と現在の日本とのまつたく反対な立場に思ひ至ると、まことに感慨無量である。  戦敗国には、もちろん想像を超えたインフレーシヨンの波、正視できぬ飢餓の相貌、外国人旅行者の大尽遊び、街の女の氾濫、わけてもドイツでは、青壮年男子の著しい陰鬱な表情がわれわれの心を強く打つた。  しかし、総じて、戦敗国民の精神を支配してゐたのは、平和に対する希望や安堵ではなく民族の運命についての不安と焦躁であつたやうに思ふ。それは、彼等自体の力の問題、政治の動向に深い関心を示す国民の杞憂に類するやうなものであつた。そこからは、当然、楽観的な見透しなぞは許されない、緊張と動揺の交錯が全生活を彩つてゐるかに見うけられた。若い世代の宗教への指向もその一つ、絶望と狂躁の歌声もその一つの現はれである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

民衆の精神が、不健康を意とせぬ方向へ向けられた原因は、決して、政治と教育の罪だけではない。これこそ、政治を批判し、教育の刷新を叫ぶ多くの識者の怠慢、独善、日和見、ことに、驚くべき説得力の不足に最大の罪があると思ふ。  かくて、われわれは、われわれの最も信頼する「選ばれた人々」の精神の健康を疑問とせざるを得ぬことになるのである。  一雑誌のアンケートではない場合に「なにを云つたつてできやしねえ」と内心うそぶく精神の不健康、何事にも自分の順番を待てぬ人間の悪趣味を、私は、自分のうちに発見して、しばしば苦笑することがある。 女房の妬くほど亭主もてもせず

「趣味」といふ言葉が精神のはたらきに対して用ひられる場合がもつとあつていゝと思ふ。これは、いろいろなニュアンスを含んだ、ものごとを綜合的に批判するのに適した言葉である。ことに、生活と直結する「文化」の問題について、人間的な価値判断を加へるのに、非常に便利な言葉である。 「趣味」の感覚と、前回の手紙に書いた「平衡感覚」とは、ある点で一致するものであるが、これは主として物ごとを「美醜」の標準に照らして直覚的に選択する能力であつて、つねに相対的な好悪の判断と、ほとんど衝動に近い言行とによつて、赤裸々に一個の人間を示すものである。そしてまた、それは、日常の生活と気分とに深く結びつくだけに、見やうによつては、一つの思想の具象化となり、とくに、社会観、人間観の不用意な告白ともなるのであつて、その意味では、また、のつぴきならぬ近代的ヒューマニズムの尺度をなすものである。まことに、「人間侮辱」は、悪趣味のなかの悪趣味と云ふべきであらう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

精神の健康不健康と、広い意味に於ける「趣味」といふことは、非常に関係が深い。「よい趣味」が健康な精神から生れ、「悪趣味」が精神の不健康を語ることは、ひととほり事実として承認しなければならぬ。  しかしながら「趣味」はまた常に固定し易いもの、障壁を作りやすいものである。健康な精神は、だから「よい趣味」によつてひとつひとつの行動を規整しようとはしない。ひとつひとつの行動に、おのづから「よい趣味」が反映するといふだけである。  従つて、俗に「よい趣味」とされてゐるものに反逆する行為のなかに、趣味としての「よいもの」が感じられ、俗に「わるい趣味」と考へられてゐるやうなものでも、それが処を得れば存外「よい趣味」として匂ひ出るのである。 女房の妬くほど亭主もてもせず

この例でもいくらかはわかるやうに、精神の健康は、まづ精神の自由にあるやうに思はれる。精神の自由は、ひと口に云へば、精神の全機能の平衡のとれた活溌なはたらきとも云へるけれども、一面から考へると、常に表面の平衡を破つて、新たなる平衡を求めるものであり、強制と誘惑と先入見とに抗して、自然でかつ自律的な行動を促すものでなければならぬ。 「自由なる精神」は、それゆゑ、不羈独立の精神であると同時に、安易なる方向への傾きを拒否する精神であり、順応は必ず厳密な警戒のもとにおいて行はれる。自由なる精神がしばしば天邪鬼の風貌を呈するのはこれがためである。 「自由なる精神」は、それゆゑにまた、「流行」を追はぬ。流行を追はぬだけではない。「流行」そのものを歯牙にかけない。 女房の妬くほど亭主もてもせず

なにもこれがどんな場合にも通用する最上無類の名答だといふわけではない。雑誌のアンケートといふお定まりの型にはめて、みんながみんな真面目くさつて「本年への希望」を縷々述べるにも当らぬといふ理由もあり、ことに、改まつて何かを云ふにしては、さうさう適切なことが浮ぶはずのものでなく、ある程度思ひつきでお茶をにごさなければならぬ場合も考へられ、更に、平生はさほど真剣に考へてもゐないやうなことを、さも言はずにゐられぬといふやうな身構へで云ふ始末にもなりがちだし、うつかりすると、こんな機会に、我田引水、自己中心の要求を臆面もなくつきつけて役目を果したつもりにならぬとも限らぬとすれば、この「なにを云つたつて……」が、きはめて投げやりで無責任のやうにみえながら、案外その実、責任を感じての慎ましい返答のやうにも考へられ、それやこれやで、読者として、ちよつと無意識に膝を打つてしまつた次第である。  ほかの誰かれを引合に出すのはやめるが、この太宰式回答は、私の読んだ他のすぐれた回答に劣らず、なかなか生彩ある「健康な精神」を思はせるものであつた。それにくらべると、正面切つた数々の希望や注文のなかに、その提出のしかたが、いかにも「精神の不健康」を感じさせるものがなくはなかつたといふことを附け加へておかう。 女房の妬くほど亭主もてもせず

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